長期間に渡って着々と進めてきたプロジェクトがあるとする。
そしてある日突然「やっぱり、そのプロジェクトいらないかも!」と言われるとしたら、どうだろう。
それに似た話を、アンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』で読んだ。
それをいま、人類が体験しているらしい。
人類が誕生してから、数百万年掛けて、着々と遺伝子をつなぎ、地道に進化してきたことが、たった数十年の社会の変化によって不要になってきているらしい。
不要どころか、邪魔な扱いすら受けている。
持て余すだけならまだしも、生活に支障を来してしまっているらしい。
例えば糖質も脂質も、必死に効率よく摂取できるように進化したのに、ファーストフードを食べると簡単に過剰になって肥満をまねく。
危険を察知するために進化してきた情報に対する感受性も、オーバーフローしているらしい。
せっかく(文字通り命懸けで)進化してきたのに……。
スマホが依存性を有していると言うよりは、人類の注意力の仕組みに依存性が内包されているようだ。
スマホはあくまでそれを増幅する装置として機能している。
なのでスマホを敵視するのも、いまいち的外れだし、かといって脳みその機能を停止するわけにもいかない。
個人的に過去を振り返るなら、そもそもスマホが登場する以前から、自分たちは噂話に対して、依存的だったように思える。
例えば、中学生だった頃、クラスメートの中には噂話が好きだった人がいたことを覚えている。
一体どこから仕入れてくるのか、その人は他の学年の色恋沙汰まであれこれ情報を聞き込んできて、それをクラスのみんなに耳打ちするように広めていた。
それを聞いて感化された自分たちは、自身に対する評価も気にするようになったり、他人の目も気になるようになっていった。
そんなやり取りを「悪い習慣」として捉えていた向きもない。
どちらかというと、噂話に敏感になることを「精神的な成長」として理解していたようにも思う。
教育的にも「社会性」を身につける作業だったのかもしれない。
そんなわけで当時のクラスメートはスマホ(そのうちのSNS)がない時代にも、スマホの役割を十分に果たしていた。
本を読む限り、噂好きのクラスメートも、ファーストフードも、スマホも、悪気はないかもしれないと自分は考える。
クラスメートはただ性格的に好きなことをしていただけ。
ファーストフードは「手軽に最高に美味いものを食べたくて」生み出されただけ。
スマホも「情報のやりとりを便利にするため」に発明されたのだと思う。
人類の進化も悪気があるわけでもないし、文明の発展も悪気があるわけじゃない。
月並みな結論だけれど、なにごともバランスが大事。
心の平穏のために、明確で分かりやすい対処法を求めてしまうのもまた、脳みそのクセのようなものかもしれない。